身体とそこに繋がれた意識と

 個々の性格というのは、時にその人の身体を守る役割を果たしているのかもしれないなあと、考える。

何かと頑張りきれないのが自分の悪いところだなあと常に感じながら生きてきた。
あちこちに気持ちが行ってしまい、継続してコツコツ積み重ねることができない。好奇心旺盛といえば聞こえがいいけど、せっかくのギフトを、チャンスを、つかみかけた何かを、そのせいで無駄にしている感がつきまとう。
なにか一段落するたびに、必要以上に弛緩してしまい、時間を無駄にしてしまう。その時間の長さが、得たものを忘却の彼方に押しやってしまう。
それは性格のせいでもあり、決してタフではない身体のせいでもあった。

10年ほど前に良い鍼の先生に出会い、身体のバランスの悪い部分を見つけてもらい、そのことからくるしんどさに共感してもらうこともでき、確実に私の身体は楽になってきている。
ああこれで私は頑張れる、身体が動くということはそれだけ密度高く経験でき、継続もできるのだ!…と、感じ始めていた。
活動量が多い人の見ている世界が、私にも見え始めている気がしていた。

眼の病気の発覚。そのせいか、加齢のせいか、もともと悪かった視力もさらに不安定になる。
見えないというのは思いの外エネルギーを奪うものだ。
日々の地味な疲労に加え、このままいけば生活が不自由になるかもしれないという未来予測が、先行きを見づらくする。
ある瞬間突然に起きた症状のせいで、ああ社会生活が終わった…と本気で覚悟をした日もあった。(幸いなことに大事には至らなかった)
未来に向かおうとする気力は、明日はないかもしれないという現実にその力を奪われる。

今年の健康診断では、また別の、複数の検査にひっかかった。
どれも緊急性こそないけれど、受け流して良い状況でもない。生活に制限がかかるわけではないけれど、敢えて負荷がかかる道を選ぶとなれば躊躇するだろう。

今の自分を乗り越えるためにエネルギーを費やすことが、本当に必要なことなのか?
気持ちが立ち止まる。
まるで、あの手この手でブレーキをかけられているような感覚じゃないか。

頑張れない自分というのは、その身体を守るためのストッパーだったのかもしれない。
次々と気まぐれに集中力が動き回るのは、一箇所に負担をかけないための仕組みなのかもしれない。

いっそ。
前進を選ばず気まぐれに動き回る、そのこと自体にエネルギーを費やすことが本領なのか。
身体という容れ物と、自由なようでどこまでも容れ物に繋がれたままの性格を、思う。





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