・・・といっても自分のことではない。私は既婚者なので。
最近、巷では「婚活」なる言葉があるとか、ないとか。
言葉はともかく、お年頃に差し掛かりかつ結婚の意志はあるのだけどチャンスがない、と言う人が周囲にも多いのは実感する。
そんな友人の1人と話をした。少し前に私が彼女にある男性を紹介したのだ。
今回の話は、男性のほうは彼女を気に入ったようなのだが、彼女自身が残念ながらどうもピンとこない、という内容で、彼が本気で想ってくれているのだったら、そんな気持ちのまま連絡を取り合うのは却って失礼なのではないか、という相談だった。
彼女は言う。
とても良い人で、私にはないものを持っている。悩みを相談すると「そうか!」という意見をくれるし、友達としてはむしろ失いたくないくらい貴重な存在なのだけど、と。
彼女の口調や性格から考えて、彼に気を使って言いつくろっているわけではないようだ。
少し、不思議な気がした。
尊敬できる相手で、友人として失いたくない、という気持ちをはっきり持っているのに、将来のパートナーとしてはイメージできないというのが、私にはよくわからなかったのだ。
それだけクリアに相手を評価できるのであれば、私だったらもう少し積極的な気持ちを持ちそうな気がする。
彼女はまた、話の中で「恋愛感情を持てそうにない」という言い方をしていた。
ここからは完全に私自身の話だとして読んでいただけたら幸いなのだが
私の場合、結婚に際して「恋愛感情」というのはさして重要ではなかった。
人間として尊敬でき、パートナーとして信頼できる。一緒におもしろがれる。
これが、夫を夫として受け入れられた理由で、それ以上でもそれ以下でもなく、すんなり結婚を選んだ。恋愛感情に近いものは、むしろ結婚生活をスタートしてからのほうが大きくなっているような気がする。
結婚前、大先輩から冗談まじりにこんなことを言われたことがある。
「結婚なんて誰としても同じやで。」
「自分が相手のためにどれだけのことをしようと思えるかが大事やねん」
・・・だったら誰とでもよくないじゃないじゃないですか!
そのときは笑って聞いていた気がする。しかし、今となっては、この言葉ほど結婚生活の心得を的確に表現したものはないのではないだろうか?と、つくづく思うのだ。少し付け加えるならば、「結婚なんて誰としても同じ。自分が相手と、二人の人生のためにどれだけのことをしようと思えるかが大事。」となるだろうか。
このセリフが意味すること。
それはつまり、幸せな結婚(生活)の本質は「相手」にあるのではなく、「自分自身」にあるのだということだ。
波乗りのイメージに近い気がする。
うまく波に乗れるか否かを決定するのは、波の善し悪しではなく、本質的には波に乗ろうとする自分の体の軸がぶれていない、ということだけだ。体の軸がぶれている限り、いくら良い波が来てもうまく乗ることはできない。
逆に、軸さえしっかりしていれば、思いもかけないおもしろい波を乗りこなす楽しみさえ生まれてくる。
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彼女に彼を紹介したのは、もちろん彼女のほうにも結婚の意志があることを確認してのことだ。
ただ、今回の話を聞く限り、彼女自身の中に、本当の意味での「結婚の準備」はまだできていないのではないかな?ということをうっすらと感じた。
そして、これは彼女だけのことだけではなく、「結婚したいのに良い出会いがない」と嘆く多くの人にも当てはまり得るのではないか?とも。
もちろん、人生のパートナーを選ぶ基準は人それぞれ。
尊敬でき、信頼でき、なおかつ恋愛感情を燃え上がらせて一緒になって幸せなカップルもいるだろう。
だけど、基準が何であれ、どんな波でも楽しく乗りこなそうという覚悟がない限り、ないものねだりは続く。
結婚は、責任をともなう重要な選択ではあるが、同時に心から楽しい人生体験でもある。
いい加減に決めることではないが、決して頭でっかちに構えることではないんじゃないか?と思う。 波に乗る感覚を体で捉え、思いがけないハプニングや感覚を楽しむのも素敵なことだ。
「(人生は)一つのことしか選べないけど、何を選んだとしても、楽しいよ。」
結婚を決めた後、夫が言った言葉は、今も私の宝物だ。